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私を捨てないで。覚えていて。

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私は最近、傘をなくした。

 

傘をどこかに置き忘れることはあっても、なくす、つまりどこに置いてきたのか、どこでなくしたのかわからなくなる、ということは今までなかったのに。ここ数年、年齢を重ねてきたせいか、人の名前や物の名前が覚えにくくなっている。「あれ、ほらあれだよ、ええと、なんだっけ」と言うことも増えた。そのせいでこんなことも起き始めたか、と思っていたのだけれど、考えてみると、別の見方もできるのではないかと思い始めた。

 

もしかしたら私は、物への執着が減ってきたのではないだろうか?

 

私は昔から片付けが苦手だった。物が多すぎたせいもあるのだと思うのだけど、そもそも物が捨てられない人だった。私が持つ物に関しては、ほとんど全部「どこで買ったのか」「誰からもらったのか」「これを買うとき、他の色とどちらを買うか悩んだのよね」などその物にまつわる物語を記憶している。自分がそうだから、世の中の人もみんなそうなのだと思っていた。

 

学生のとき、友人にCDを貸した。その当時自分で自作したきんちゃく袋に入れて。けれども、友人から返却されてきたとき、そのきんちゃく袋には入っておらず、CDだけになっていた。

「これ、きんちゃく袋に入れて渡したはずなんだけど……」

と私が言うと

「そうだっけ? そんなのなかったけどなぁ」

と軽く流された。なくしちゃったのかな、なら仕方がないか、と私もそれ以上は追及しなかった。

 

しかし、何か月後かに私は自分の目を疑うことになる。

その友人が、なんとそのきんちゃく袋を使っていたのだ。私は本当に信じられなかった。だが、その友人は悪びれる様子もなく、堂々と私の前でそのきんちゃく袋を使っている。市販品ならばまだわかる。同じものがどこにでも売っているのだから。だが、それは私が作った物なのだ。間違いようがない。これは何かの嫌がらせなのか? いじめなのか? などと考えてみたけれど、その後も友人が態度一つ変えずそのきんちゃく袋を使っているところをみると、本当にそのきんちゃく袋の出所を覚えていないようだった。

 

私もいじわるだなと思うのだけど、その袋は自分の物であると告げることはせず、友人にこう聞いてみた。

「今持ってるものってどこで買ったか覚えてる? 例えば、そのカバンとか、筆箱とか」

「そんなの、いちいち覚えているわけないでしょ。まさか、あんた全部覚えてるの?」

そのときの衝撃といったらなかった。そうなのか! みんなが覚えているわけではないんだ! と同時に、友人がきんちゃく袋を堂々と使っているわけも理解できたのだった。

 

 

ところで、うちの夫は今でこそ少なくなったが、物をなくす常習犯だ。ほんの15分程度しか乗らないのに、電車の切符をなくす。目的地の駅の改札前で、ポケットというポケットに手を入れて慌てて探すのはいつものことだ。傘も、もちろんすぐどこかに置いてくる。だからうちにはビニール傘がどんどん増えていった。

 

あるとき彼はお財布をなくした。あろうことか、そのお財布は私がプレゼントしたものだった。物をなくすことをいつも私に怒られていた彼は、さすがにこれは言えないと思ったらしく、同じお財布を自分で買って使っていた。だが数日後、私がうちに届いたはがきを見て、すべてが白日の下に晒されてしまう。そのはがきには「拾得物のお知らせ」とあり、警察から届いたものだった。拾得物の欄には「財布」と書いてある。あれ? おかしいな、と私は思う。昨日お財布を使っているのを見た覚えがある。どういうこと? という訳で、彼の偽装工作はあっけなく見破られてしまったのだった。

 

こんな夫と暮らしてみて、本当にだらしがない人だ! と怒ってばかりいたのだけれど、このところ見方が変わってきた。彼は、物に対して私ほど執着がないのかもしれない、と思うようになったのだ。彼はどうも物を所有するということに対して、私ほど興味がないようなのだ。物の捨て方をみても私とは全然違う。自分に今必要がなければどんどん捨ててしまう。まあこれは、私と違って物への記憶があまりないからなのかもしれないけれど。私は、その物を買ったときの気持ち、選んだ時の気持ちをありありと思い出してしまうから、なかなか物が捨てられなかったのだ。その時の自分の気持ちまで捨ててしまうような気になってしまっていたのかもしれない。

 

いや、もしかすると、私は物へ自分を重ねていたのかもしれない。私は「自分が」捨てられたくなかったのではないだろうか? 「自分が」忘れられたくなかったのではないだろうか? 思えば私は、親から、友人から、夫から……見捨てられはしないだろうかと、いつもどこかで怯えて生きてきたような気がする。表向きは強がって見せていても、どこかで「こんなことをして(言って)私は嫌われないだろうか? 見放されてしまわないだろうか?」と相手の顔色を窺っていたのだ。自分の自信のなさがこんなところにも表れていたのかもしれない。私の一部と化した「物」だから、捨てるには相当な心の痛みを伴う。自分で自分を捨てることになるのだから。それゆえ捨てるには相当なエネルギーが必要だったのだ。片づけをするのが苦痛だったのは、きっとこういう理由もあったのだ。そして、だいぶ片が付いてきた今、私は人の顔色を窺ってばかりの臆病な自分を、忘れられたくない自分を、だいぶ捨てられたのかもしれない。私の物への執着というのは、自分への執着だったのだろう。なくした「傘」は、そのことを教えてくれたのだ。

 

物を大事に使うことは重要だと思う。物をなくしてしまうことがとてもいいことだとも思わない。けれども、人間関係と同じように人それぞれ物との関係があって、それぞれが自分にちょうどいい距離感で暮らしているのかもしれない。ご無沙汰している物、いつも活躍している物、あんなに仲良くしていたのに、忘れ去られてしまった物。関係性は常に変化してゆく。やはり、人間関係と同じように。

 

私は今日、新たな気持ちで新しい傘を買いに行く。次はどんな関係になるのか楽しみだ。