負けず嫌いは 「敗北感」 しか得られない
私は負けず嫌いだ。
あの人にも、あの事にも勝利したい。敗北感なんて感じたくなどない。
けれども、負けはやってくる。あの人にも勝てない。気づけば敗北感だらけだ。
ある時私は思った。
私はいったい何に、何のために勝とうとしているのだろうか?
勝ちたいのは、私がいい気分になりたいからだ。
自分はあの人やあの事よりも上である、優れていると思いたいからだ。
いい人だと思われたい。仕事ができると思われたい。
私がそのために身に着けたものは「察する」という能力だった。
あの人は以前こう言っていた、今回はこう言っている、ということはきっとこう来る可能性が高い。だから準備しておくものはこの辺りだ、という能力だ。
これは仕事ではとても重宝された。私が欲しかった評価ももらえた。
だが、的中率は100%ではない。だから今度はいかに的中率をあげるのか? ということが私の課題になった。
しかし、私は神様ではないのだ。
100%の的中率だなんて設定自体に無理がある。だから、頑張っても頑張っても100%にはできなかった。そして、また、敗北感。
しかし、何なのだろう? この0か100か的なこの発想は。
勝利したいから、敗北感を感じたくないから身に着けた「察する」能力。
なのに、100%にはならないのだから、結局のところ敗北感を味わいたいから頑張っていることになってしまっているではないか!!
ああ、私がしてきたことはなんだったのだろう。膝から崩れ落ちてしまう。
察する能力にも弱点がある。それは「相手」がいないとなかなか使えないということだ。自分のことを察しようとしても、それはなかなか難しい。察しているつもりで、見たくない(察したくない)ところは上手に逃げてしまう。しかも、逃げていることに気づいていないことさえあるから厄介なのだ。そうして、私はいつしか自分を見ることから逃げていた。人の事を見て、察していれば日常生活に支障はなかった。――はずだった。
けれども結局、私のやっていたことは、自分のことは置き去りにして、人の顔色を窺うという臆病なことだった。それなのに、人より優れていると思いたいだなんてちゃんちゃらおかしい。
気づけば私の足元は自分で作れておらず、他人の評価でできていた。そんな脆弱な足元を直視せずに、次から次へと崩れていく足元を必死に守ろうとしていたのだった。
まさに砂上の楼閣。
だから、いつまでたっても敗北感しか得られなかったのだ。
負けたくないから、敗北したくないから必死に勝とうとしてきたと言うのに。
私はついに「負け」を認めた。
私はどう頑張っても100%は出せません。
あなたの方が素晴らしいです。
あなたの方が優れています。
あなたの方が仕事ができます。
もう、あなたにはかないません。
こう書いてしまうと、自分を卑下しているだけのようにも思えるが、そうではない。
いや、最初はそうだったのかもしれない。けれども、こうして負けを認めているうちに気づいたのだ。
勝ち負けの発想自体がくだらない。
そもそも、何をもって「勝ち」なのか「負け」なのか、その辺があいまいだ。ある人にとっての「勝ち」は別の誰かにとっては「負け」かもしれない。自分が勝手に「勝った!」だの「負けた!」だのと、起きたことにラベルを貼って一喜一憂していただけではないのか。
まことにお恥ずかしい話ではあるが、私はせっかちゆえ、自分の前をゆっくり歩く人がいると許せず、どんどんと追い越してゆく人だった。
つまり、どんどん追い越して急いで目的地に到着することが、私にとっての「勝ち」だったという訳だ。だから、人が多いところでダラダラとのんびり歩いている人がいると、私はとてもイライラしていた。どうやって追い越すのか、とにかく私が先に進める方法を最優先に考えた。
だけど。
「負け」を意識するようになってから、無理に追い越すことがバカバカしくなってきた。
本当に急いでいるときは、追い越してでも向かわなければならない。
けれども、時間に余裕があるのなら、ゆっくり進んでもいいのではないか。大事なことは「自分のペースで」ということなのではないか。
私が勝った(と感じていた)ときには、誰かが負けていた。
もちろん、相手は「負けた」と思っていなかったかもしれないが、私が存在するためには「負けてくれる人」が必要だった。
そんなのフェアじゃない。改めて考えてみると、私ってどこまで自己中人間なのか、ぞっとする。
私はいつだって勝ちたいの。だからあなたは負けてね。
そんな風に言われてうれしい人なんてほとんどいないだろう。なのに、それを私は平然とやっていたのだ。
「負け」られるようになってから、私は自分の器が少し広がったように感じる。勝ちたかった頃は、負けたら器自体が消滅してしまう! くらいのことを思っていた。しかし、結果は逆だった。負けたら、素直に人のことを認められるし、自分のことさえも認められるようになった。
「負け」という言葉を使うのも、もうやめよう。
だって、決して「負け」なんかではないのだから。「負け」こそが「勝ち」なのだから。
そして、だからこそ勝ち負けなんてあまり意味のないことなのだから。